5 環境整備
親水公園 体験農業
用水地上部の利用 1 台地と弥厚 2 後継者と開削 3 頭首口の改修 4 汚染と管水路
明治用水のほとんどが 暗渠化・パイプライン化されて明治用水の姿は見えなくなっています
水路上部は自転車道・緑道・せせらぎや 親水公園にと地域住民の意向を取り入れた形で作られています
小さい図は安城桜井の西側付近の想像図です上の川は追田悪水おだあすいで 地中の丸は管水路です
道路は自転車.歩行兼用道です
歩行者道はランニングやウオーキングに 毎年市民マラソンにも利用 自転車道は通学路にも利用します 
流水を学校内に引き込んで 水性動物観察とか教材に利用されたり 町内にホタルの生息地を作ったり 
植え込みの中に 安らぎの池を作ったり 水のある風景で情緒を広めています
用水路上の景色の一部
自転車道 水車公園 遊歩道
圃場の整備
膨大な費用を投入してきた明治用水の平成14年度の 水路総延長は405,218.6mでありその内
管水路は12,909.2mとなり 受益面積は6,084.6ヘクタールです 
文政10年(1826)都築弥厚が「三河国碧海郡新開一件願書」に盛り込まれた受益面積は4,200haでした
井筋の規模も違い 通水方法も当時は考えられない変革となり 弥厚さんの用水は成長しました
..
昭和40年頃から国の土地改良事業によって 大規模で大型機械の導入を考慮した大区画ほ場整備を実施
しました
1耕区は 短辺側を30m 長辺側を100m 面積30アールとし 10耕区で 1ほ区 2ほ区をもって1農区6ヘク
タールを標準としています。 短辺側に管水路を通して バルブ操作で必要量の取水が出来ます 
要領は上水道と同じです
この圃場整備に対する農家の評価は大多数が満足でした 資金面で農家に負担が掛らなかったのが大きな
要因.でしょう
区画整理と配水
    i.   農区制 「6ヘクタール制」
 1 農区は 2 ほ区
 2 ほ区  1 ほ区×2
 1 ほ区 30m×100m×10=300u
.
単区画ごとに取水弁と排水口が
あり 取水弁までは常時水が通
っている
上記圃区の周囲に巾4m-7mの幹線道路・耕作道路があります 将来 宅地化も考慮した区割と道路です
取入口バルブ  分水枡
地形の高低差で流れてきたものが バルブを開けると きれ
いな水が噴き出てきます
他の田の都合を伺はなくても自分本位でつかえます
.
排水口
排水は堰板の高さで調整できて いつも一定の水位が確保で
きます
.
.
モデル地区の整備前の圃場の状態で
.
高地の田を満たせた 余分の水が順に低地の田えと
送られて来ることになり低地では待つばかりです
小さい田が勝手放題にあって細いあぜ道では 車も
入れない それぞれ管理のやり方も変わります
.
整備後の状態です
.
取水口と排水口が田ごとにあるので 水利は自由とな
り大型機や運搬車が農道を利用することで時間と労力
の減数が大きく専業農家でなくてもよいことになりま
した
工場進出等で 農業離れが普通になって大型機を駆使できる代行業者に委託できるようになり さらに変化した
生産様式も見えます
涵養林
水を使う者は水を作れ の信条のもと 
矢作川関係者は早くから 上流の水源涵養に関心を持ち明治41年1908年 東加茂郡下山村の山林地上権の
契約を結び大字(おおあざ)羽布の造林地の植林を行い 大正3年1914年大規な造林事業に乗り出しました
長野県下伊那郡根羽村の山林525町歩--521ヘクタール実測559
ヘクタールを買収して植林するものですが 涵養水を摂理として
会得できずに山と川とは別物として反対が多かったのです 
管理組合は 基本財産構成の目的 と名目を変えて提案しそれ
を可決して植林を始めました 
その後も管理範囲を広げましたが 羽布ダムで水没した分が農
林省の管轄になったりして変動があり 平成14年の公布物では
524.68ヘクタールで 造林地名に 根羽.平谷.有間.小渡.羽布が
根羽造林地    あり 植林の樹木名では 杉.桧.唐松.黒松の他に雑木があります
昭和43年中部日本治山治水連盟の造林コンクールで優良造林地公有林の部で3位入賞の栄誉を受けました
わが国のような地形と気候では降雨量の多寡で川の水量がいちじるしく変化し 水不足だったり 洪水で
あったりその都度人の生活に影響を与えます 涵養林は陸地のダムといわれるように 降雨時には水を貯
えて土砂の流出  崩壊を防ぎ渇水時にも用水にかなりの水量を供給するのに役立っています
その意味でも 貴重な水の財産とゆうべきでしょう

明治川神社
明治川神社 伊佐雄社

明治13年1880年12月創建され明治用水と旧東海道の交差する所で最も目立つ場所を選んで建てました
ご神体は 上倉池の狐島に弁財天を祀った厳島社があり 土地の人に 水神さん と呼ばれて敬はれて
きたのを新たに お社を設けて勧請し奉ったのです (弁財天は河川の神様でもあります) 
後の明治18年1885年4月県知事から-無格社-として公認されたが その時の昇格請願書には明治川神社
と始めて記名されました それ以前のこの神社名はありません
--無格社は 格がない とゆう意味でなく そのような格式の名称です 伊勢の猿田彦神社も同じです--
.    現在の神社等級は4級とのことです
祭神は 大水上祖神 みくまりのおやのかみ  水分神 みくまりのかみ  高?神 たかおかのかみ の 
3 柱の水の神様と 用水開削功労者の都築弥厚・伊予田与八郎・岡本兵松・西沢真蔵の7柱 
傍らの伊佐雄社には 田中勘七郎・本田寛三郎・加藤太兵衛 中根祐・木藤八三郎・黒宮許三郎 はじめ11柱
が開削協力者として祭られています 
この中には存命中に神に祭られる極めて稀な神さまもあり それは地域の人たちが用水開削の功労者とし
て偉大な尊敬を集めた表れだといえます
明治22年1889年11月 伊与田与八郎は明治川神社の祠掌を務める事に決められました 
伊与田は発起人であるが出資者達も すっかり経済的に苦しくなつていました 受益地の地主たちが見か
ねて救助を協議して伊与田を神職に推薦し県庁が認めたのです 伊与田は抵当に取られていた屋敷から
離れて神社の端に住むようになり 神職として自分を祭ることになりました 
明治36年(1902)に第一回の大改造が行はれ 神社の格式の昇進願いの運動をおこし 無格式社から--
県社加列請願書--を提出したが受けられず 郷社と認められました
..
. 今 神社は森の木々をそびえさせてお社を覆い 
たいこ橋の架かったお堀には明治用水の澄んだ水
を絶え間なく流し 相たいした2つの田植え石--
田植えをしている姿の石--に風情を送っています
たいこ橋の左右の掘に田植え石があります
長々と お疲れのことでございましょう ありがとうございました
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