明治用水
表紙え
水源地頭首工堰
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頭首工堰堤  昭和33年3月完成         建設地    愛知県豊田市水源町
重力式堰堤   全長    167m         .受益市     安城市 岡崎市 刈谷市
..........最大取水量   毎秒 農業用水 36.93t                  高浜市 知立市 豊田市
上水道     1.23t                  西尾市 碧南市
工業用水  .  4.02t
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1 台地と弥厚 2後継者と開削 3 頭首工の改修 4 汚染と管水路 5 環境整備
1 台地と弥厚
. 安城ヶ原
 昭和30年代に当時国鉄東海道線の車窓から 野井戸の撥釣瓶や踏
 み車水車の竿が林立する する風景が見えて古めいた田園風景に
 出会えた楽しさから次回からも席を選んだのを思い出します 
 車窓からはほんの僅かの区間だったことでもあり地名も分からなか
 ったのですが 今それが安城だったと話せるようになりました
はねつるべ
最近になって 市が1979年発行の 明治用水百年史を20何年振りにつまみ読みして この地の先覚者た
ちの情熱を知り 明治、大正、昭和 と用水を育て続けてきた関係者の純粋さを教えられました
ひるがえって現在 この地の人たちに 日本デンマーク を話 す人はあっても 明治用水の歴史を話す
人はありません この地では何処え行くにも1~数箇所の地下用水路を渡り越している事実と 圃場、路地
で見える水の多くは明治用水であることをおとぎばなしや昔話しのようにでも伝えられればと思います
これは まったく過去の話ではありません 用水路の管理 改善 の作業は今も続いているのです
水争い
黒い点が溜池です この地方は碧海台地と呼ばれ、不毛の台地と言われたが、 台地の原野は入
会地で 農民達の草刈り場として低木と共に薪炭・草肥・秣(まぐさ 牛馬の
飼料)の供給地であり自生物を利用の供給地であり自生物を利用すること
でかなりの生活範囲の支えになつていました
..............入会地(いりあい地とは特定の人が自由に出来る区域.
この台地の間を流れる小河川沿いに、僅かな水田が開かれ、集落が発生して
いたが小河川の水量では足りず、農民は湧き水の利用や 溜池作りを保水
手段としながら荒地を開墾して除々に水田を広げました。いづれも水量が少
ないことから池の数が増え続け、解消しない水不足から、水争いだけが多く
なりました
1ヘクタール以上の大きさの溜池は84箇所それ以下は無数です。
のちに 農民は耕地に井戸を掘って補水に当て 早朝から日没後まで撥ね釣瓶で汲み上げて田桶(たご 
たんご)で運んだり、低い溝の水は踏み車で掬い上げたり、日日水による重労働に忙殺されていました。
その中でも、一番井戸の多いのは台地中央の安城村で 400町歩の耕地に3700箇所もあり撥ね釣瓶の
柱と踏み車の棹を加えて、まさに林立していたのです。 
お父さんの顔を知らない と言う子が あちこちにいました。
   あの子 どこの子 アンジョの子 うちのトッツァンの 顔知らぬ    安城西尾の歴史より
池分布図の中央あたりの大きな黒点は上倉池といい一番大きな池です52ヘクタール右の縦の線は
旧東海道です 東海道と上倉池がくっ付いたところに明治川神社が建立されています
図の右側が北です  現在はこの池の上を名鉄電車や国道1号線が通っています 町名では 今池町 
東栄町で上倉の地名もあります
当時は、耕地面積は1200町歩で、ため池の面積が488町歩もあり、 耕地には池と井戸がつきものでした
     3000坪は10段 は1町歩は1ヘクタールは1万平方mは100m×100mの面積
忙しかったのは亭主ばかりではありません。
   嫁にやるなら 安城にやるな ひがな一日野良仕事
安城に限った事ではないですが、それにしても安城の嫁は働き者が多かったのです。
姑が家事や子育て 孫育て をやることで、嫁は夜が明けると野良仕事に出て行き、たまに仕事が早く片
付くことがあっても 明るい間は家に帰りづらいのです。 自分の長女が10歳前から家事を仕込まれ、
小学校を卒業すると もう一人前に家事が出来ます、結局 嫁は農事のべテランにはなりましたが、台所
知らずのままです
計画と挫折 .
都築弥厚とゆう人は 和泉村で生まれ根崎の代官支配の実務を行
う役を努め地主で酒造を営む富豪でした   
常々農民の貧困を憂い水利の乏しい台地に矢作川を水源とする用水
を台地に導く計画を持っていました
これにより 新田5千町歩を開墾し 5万石の収益を目指す遠大な計
画です ちなみに隣の岡崎藩の知行高は5万石でした 
喜平と弥厚    
高棚村の住人で 算学(数学)の大家である 石川喜平に協力を依頼して測量を始めましたこの台地は
生産性に乏しいのですが 大小の大名領や旗本の知行地が絡むように入り組んでいる所です
当時は二つ以上の領主の異なる土地を開発工事 するには幕府の許可が必要で 開発後は天領に組
み入れられる つまり幕府の直轄地として取られてしまうので領主は土地を取られるだけで利益はなく 
国益を理解するが己が損害は御免こうむる と測量に反対しました 
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農民は入会地がなくなることで生活が苦しくなる 矢作川を導入するで そのあたりが洪水になると反
対したのです その各領地を縦貫して用水路を開こうと言う案です 弥厚は懸命に説得にあたりまし 
たが効果はありません
喜平は 越戸 名鉄現三河線越戸駅の東 の取水口から上倉池 (名鉄本線新安城駅の南) を経て安城 
村 桜井村から米津村に通じるラインと 上倉池で分岐し篠目村. 半城土村から吉浜村に通じるラインを
自然の地形で流すための測量をはじめましたが 領主に踊らされた農民の妨害にあって日中の測量は 
できず夜ひそかに測量する等苦難のすえ 着手以来5年後の文政9年1826年に工事費をはじめ諸条件
の調査も完了して 翌10年依然反対の多い中で 弥厚は子の都築弥四郎の名前で幕府勘定奉行に 
三河国碧海郡新開一件願書  を提出しました
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.弥厚願書の骨子
 1.矢作川の水を越戸で取水し乏水性の碧海台地を潤す
 2.新開予定面積 4200町歩 米5万石の増収図る
 3.不毛の地を開くことは国益であ
 4.干害と貧窮に悩む農民の救済になる
 5.開発に要する経費は自費 用水路一式だけの費用は幕府から拝借金とする
 6.開発には尾張の農民を招致する.
この願書の重厚さは 有名学者による測量であり それに元ずく経費の算出があり 私利私欲でなく
一私人の着想としとては例にない壮大さにある と言っても過言ではないし 尾張の地方で農民が余っ
ていると見た 弥厚の視野の広さも伺えます
願書に記載したようだが都築家三代に亘り諸人の喜ぶことを絶えず心がけてきたとの救済・救世の精神
からの行動です さらに幕府が受け入れ易くする策としは 3.の国益の項でしょう 台地は領主の交差
する土地なので 工事後は莫大な幕府領が当然と出来ることです 
台地の領主達の反対もこの件が大部分を占めます
農民を扇動しての反対には弥厚の説得力の限界を超えていました
天保4年 1833年4月幕府は弥四郎の開削計画を許可したのですが 領主たちの説得に無理をしたのか
弥厚は同年9月 2万5000両余 (1両で米1石 昭和51年~53年平均に換算すると10億円余)の借財を残
して亡くなりました    弥厚69歳
なおつづく 領主農民の反対と相俟って 天保6年 1835年 4月 弥四郎は願書を取り下げこの計画は
挫折しました
喜平は測量器具もなく暗夜では目視もできず火縄を利用したり 困難に耐えながら5年間もかけて完成
させたことは 弥厚に劣らぬ気骨と努力の結果の功績であり 後世に伝えられる有形の偉業に他ならな
いのです
この人も用水のために資産財産を使い果たし 悲惨と言われる生涯となりました
喜平が使用した 測量器具 木製の見盤     知ってる安城より
見盤の上部には十二支が刻まれ磁石も埋め込まれています 取り付けられた
小さい2本の角材には中心に小穴が明けられて これにより目標方向を視準し
磁石によつて方位を読み取ったと思われ金属製の測量機器が出現する以前に
地方で使用した木製見盤です
標高差は水源地から 東井筋 米津橋まで25m 中井筋 高浜は28m 標高
差だけの水圧で流します.
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都築一門に残された借財の債権者は 紀州藩 900両を始め鴻池太四郎・天野屋利兵衛・大阪の富豪や
名古屋・三河の富商であった 都築家と協力者の1万両と都築家の屋敷家屋の一切が返済にあてられ 
三河随一の財産を誇った都築家もここで破産し 弥四郎は仏門に入り母は親類に預けられ 一家は離散
にいたったのです   
   弥厚きつねにだまされて 川は掘れども 水はこんこん
これは揶揄だけではありません 水が来るのを期待していた人たちの はらのうちでもあります
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1 台地と弥厚 2後継者と開削 3 頭首工の改修... 4 汚染と管水路 .5 環境整備

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